Louis Auguste, duc de Berry (later King Louis XVI, King of France [1754-1793] and Louis-Stanislas-Xavier, comte de Provence (later King Louis XVIII, King of France [1755-1824]) as chirdren

1754年8月23日ベリー公爵の(のちのルイ16世)誕生日です

1754年8月23日ベリー公爵の(のちのルイ16世)誕生日です

父ルイ・フェルディナン、母マリー ジョゼフ ド サクスの間に、次男として生まれました。

ルイ16世は、ダメな国王ではありません、改革派の国王でした。

どうして、ダメな国王として認定されているのでしょうか?

それには、ツヴァイクの小説「マリー-アントワネット」の影響があるのです。

ツヴァイクが、ルイ16世をダメに描くことで、マリー-アントワネットの「悲劇」をわかりやすくするために、強調したのです。

なぜ、ツヴァイクは、このようなルイ16世のイメージを作り上げたのでしょうか?

それは、オーストリア側の資料に頼りすぎたからでした。

確かに、ルイ16世は口数が少なく、わかりにくい性格でした。

また、優柔不断で、鬱傾向でもありました。

しかし、国王は愚かであったわけでは、ありません。

王妃の言いなりに見えていましたが、重要なところでは、国王自身の考えを通しました。

この複雑な国王の性格は伝わりにくく、「王妃の言いなり」と書けば、国王が無能であるかのように見えるのです。

また、結婚生活に問題を抱えていたわけでもありません。

7年間、結婚が完成しなかったのは、事実です。

しかし、必要がないので手術は行われていません。

そもそも手術の記録が残っていません、ありません。

大革命につながる啓蒙主義や思想が、社会に蔓延しはじめていたから、

ルイ16世夫妻に対する誤解や中傷が生まれたのです。

最後になりましたが、ベリー公は次男でした。

彼には、3歳年長の兄がいたのです。

以前に書きましたが、ベリー公が7歳のとき、10歳の兄が亡くなったことで、王太子になったのです。

妻のマリーアントワネットも、姉が亡くなることで、フランスに嫁いで来たのも奇縁です。

フランス国王夫妻がこの二人でない、世界線があったということです。

参考文献:安達正勝著「マリー-アントワネット」2014年中公新書2286

「ルイ16世」ジャン=クリスチャン・プティフィス 中央公論新社 2008

小倉孝誠/監修 玉田敦子/橋本順一/坂口哲啓/真部清孝/訳

アイキャッチ説明

1760年ごろの作品です。

(右:ベリー公爵(のちのルイ16世)4歳、左:ルイ スタニラス クサヴィェ伯爵(のちのルイ18世)5歳)

作者:フランソワ=ユベール・ドルーエ(1727−1775)

手法:油彩/キャンバス

高さ78.7センチ 幅81.3センチ

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