Retour de la famille royale à Paris après la fuite à Varennes : dessin / non identifié

1791年6月20日深夜、マリーアントワネットがチュイルリー宮殿から逃げた日です。ようやく家族と一緒に逃げ出すことに成功しました、1810年6月20日、マリーアントワネットの死から17年経って一般にヴァレンヌ事件と呼ばれる同じ日に、フェルセン伯爵が命を落としました。

ここでは、マリーアントワネットに関するイベントがあった日を取り上げています。

1791年6月20日深夜、マリーアントワネットがチュイルリー宮殿から逃げた日です。ようやく家族と一緒に逃げ出すことに成功しました。

1810年6月20日、マリーアントワネットの死から17年経って一般にヴァレンヌ事件と呼ばれる同じ日に、フェルセン伯爵が命を落としました。

フェルセン伯爵は、スウェーデンで、暴漢に襲われてリンチによって、その場で亡くなりました。

まず、国王ルイ16世は、フランス国民を置いて逃げることを拒み、マリー-アントワネットも、単独での脱出または、バラバラに逃亡して、どこかで再合流する計画(大人数での逃亡は発覚しやすいから)さえも拒否してきました。

ようやく、1791年6月20日に、逃亡計画が実施されました。

国王一家が、捕まった町の名前をから、「ヴァレンヌ事件」と言います。

ヴァレンヌ村(現在のヴァレンヌ=アン=アルゴンヌ、Varennes-en-Argonne)から、北へ直線で64~80キロ程度で、オーストリア帝国の要塞でした。

しかし、整備されていない道でした、当時の村は、袋小路のようなものでした。

計画は、フェルセン伯爵によるものでしたが、マリーアントワネットもルイ16世も計画に関与していました。

しかし、この計画は準備段階から問題が山積みでした。

国王たちが乗る馬車のこと、国王の家族の身の回りの品々など、王妃のこだわりを叶えるのに、側近たちがとても大変な思いをしています。

そのことを王妃付き首席侍女カンパン夫人やフェルセン伯爵は、それぞれの言葉で残しています。

例えば、カンパン夫人は、王妃がこだわった衣装や食器は、馬車が重くなり、移動の邪魔になるので、逃亡先で、入手できることを王妃に伝えた。

フェルセン伯爵は、大型のベルリン馬車を2台用意したが、本当は、軽量の馬車で、家族だけが逃亡する計画だったようだ。

しかし、王太子の乳母が、計画に同行する特権を主張したり、参加人数が増えてしまった。

王妃の意向を重んじて、すべて叶えられたが、逃亡に不適切な重量で、大荷物の移動になった。

もちろん、計画が露見しないように細心の注意を持って、極秘に進められました。

加えて、逃亡決行は、何度も何度も延期されていた。

国王の逃亡をフォローする体制はあった。

しかし、度重なる延期と連絡状況のわずかな行き違いが、逃亡計画の失敗につながった。

ヴァレンヌ逃亡事件の記事、文章を読むのは、苦しい作業です。

国王一家が、追い詰められていくプロセスを辿ることを意味します。

国王がパリへ引きたてられていく前にも、ブイエ将軍が躊躇しなければ、ヴァレンヌで革命派を追い払うことができたのでは?と思いさえします。

フランス革命の鍵を握っていたのは、やはり、国王ルイ16世でした。その性格が大きく影響しました。

ルイ16世は、フランス国民の王なのだから、彼の判断に異を唱えることはできません。

たとえ、王妃マリーアントワネットであっても権力はありません、国王に進言するしかできませんでした。

捕えられた宿屋でも、逃走できるわずかな可能性があったので、王妃は逃亡を進言した。

しかし、国王が逃亡をこれ以上進めることはありませんでした。

国王は理性的理知的であったので、無謀な計画や危険を冒すことで、家族が危険に陥ることを避けたのです。

国王夫妻の逃亡計画とその一部始終は、歴史の数奇な運命を思わずにはいられません。

参考文献:王の逃亡 フランス革命を変えた夏 著:ティモシー・タケット 訳:松浦義弘、正岡和恵 白水社 2024

逃亡計画成功のもうひとつの鍵は、フェルセン伯爵にあったと考えています。

もちろん、フェルセン伯爵が、イニシァティブを取ることはできません、フランス国王を

思うようにすることはできません。

逃亡当日、フェルセンは、国王一家が宮殿から脱出する手伝いをしていました。

ところが、国王は、パリを出たところで、フェルセンに離脱を命じました。

国王が手柄を独り占めにしようとしたり、フェルセンに嫉妬を覚えた、などと言われています。

しかし、ルイ16世の(臆病、優柔不断と言われる)性格を考えれば、そのようなことはないでしょう。

脱出計画は、フェルセンのもので、国王も拒否権を持って計画立案に参加していました。

そのように、フェルセンは、信任の厚い存在だったのです。

そして、マリーアントワネットの死後17年経った1810年、フェルセン伯爵55歳でした。

フェルセンが暴漢に襲われたのは、王太子毒殺の疑いのせいです。

しかし、王太子の死因は、検死結果によって、脳卒中であることが明らかになっていました。

にも関わらず、フェルセンは濡れ衣をかけられたのです。

フェルセンは、王太子の葬儀を執り仕切りました、

ところが、議事堂前で暴漢たちに襲われその場で、絶命しました。

一説には、警護の兵隊たちは暴漢たちに対して、何もしなかったようです。

ヴァレンヌへのアクセスと歴史スポット(当サイト調べ)

チュイルリー庭園(かつての宮殿跡)から、ヴァレンヌ村(ヴァレンヌ=アン=アルゴンヌ、

Varennes-en-Argonne)まで、約250キロ 高速道路を利用して、約2時間45分です。

現在のヴァレンヌ=アン=アルゴンヌの人口は、人口700人弱、

フランス革命当時は、1300人近くいたそうです。

この街には、ルイ16世が逮捕された歴史を記念したスポットが3つあります。

1、ルイ16世逮捕の地の記念塔(時計塔)

町の中心部に「ルイ16世の塔」と呼ばれる時計塔があります。

1791年6月21日夜にルイ16世一家が逮捕された場所を示しています。

この塔は当時の宿屋「金の腕」の跡地に建てられ、第一次世界大戦で焼失後に再建されました。

2.ルイ16世通り
革命当時は「バス・クール通り」でしたが、現在は「ルイ16世通り」となりました。

3.ソース家跡地
逮捕時、国王一家が一夜を過ごした食料品店主ソース家の跡地が残っています。

アイキャッチのキャプション

Retour de la famille royale à Paris après la fuite à Varennes – dessin – non identifié

作品のサイズ:height: 33 cm ; width: 24 cm

制作年:1791年

出典:Français : Bibliothèque nationale de France, département Estampes et photographie, RESERVE FOL-QB-201 (125)

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