1789年6月4日、長男である王太子ルイ・ジョゼフが8歳で亡くなりました。マリー-アントワネット34歳の時です。
死因は、結核が原因の脊椎カリエスでした。
これにより、次男のルイ・シャルル・ノルマンディー公爵(後のルイ十七世)が王太子になりました、
当時4歳でした。
長男ルイ・ジョゼフが亡くなったのは、ムードン城(Château de Meudon)でした。
ムードンは、当時、離宮や別荘的な土地でした。
王太子の早逝を悼んだのは、国王一家の周りだけでした。
そのことが、王妃の悲しみをより深いものにしました。
そして、6月は、マリーアントワネットにとって、つらく悲しい月になりました。
2年前の同じ時期に、次女マリー・ソフィー・エレーヌ・ベアトリクス・ド・フランスに亡くしていました。
また、マリー-アントワネットの死後には、次男ルイ17世も亡くなるのです。
参考文献:カンパン夫人 フランス革命を生き抜いた首席侍女 イネス・ド・ケルタンギ著 ダコスタ吉村花子訳 白水社 2016
余談ですが、ルイ16世(ルイ・オーギュスト、ベリー公)も次男でした。
彼が7歳の時、兄ブルゴーニュ公ルイ・ジョセフが10歳で結核で亡くなりました。
兄は、7歳のある日、侍従の不注意によって、ケガをしました。
優しい兄(王太子)は侍従を庇い、ケガを隠しとおしました。
しかし、ケガを放置した結果、1年後、王太子は足を引き摺るようになったので、手術をしました。
ところが、手術用具の衛生状態が悪かったために、病状がかえって悪化しました。
病状の王太子の生活は、寝室だけになりました。
兄弟なので遊び友達でしたが、兄の機嫌を損ねないために、弟ベリー公は、絶対服従する生けるサンドバックになってしまいました。
兄のイジメや苛立ちを受け入れるしか、弟にはできませんでした。
この絶対服従の状況は、ルイ16世が、感情を表にしないという人格形成に大きな影響を与えたと考えられます。
そして、ルイ16世は、自分の長男に、兄と同じ名前をつけたのでした。
[まとめ]6月4日は、マリーアントワネットの長男ルイ・ジョゼフの命日です。
こうして、次男ルイ・シャルル・ノルマンディー公が王太子になりました。
皮肉にも、ルイ十六世自身も兄が亡くなることで、自分が王太子になりました。
ルイ十六世が処刑前に残した遺言には、残していく王太子が、不幸にも王位を継ぐことになった時のためのアドバイスが残されていました。
ルイ十六世は、息子に、自分が受けたあらゆる憎しみや恨み、そして一切の不幸や悲しみを忘れるように勧めています。
やはり、ルイ十六世は、愚かな国王ではなく評価の再検討をされるべき人物です。
参考文献:ルイ十六世 ジャン=クリスチャン・プティフィス著
小倉孝誠/監修 玉田敦子/橋本順一/坂口哲啓/真部清孝/訳 中央公論新社 2008
画像の説明:: Le dauphin Louis-Joseph, fils aîné de Louis XVI et de Marie-Antoinette (1781-89), attribué à Jean-Baptiste André Dagoty, le tableau date probablement de la période où le dauphin tombe malade, car il n’est pas très bien sur ses jambes
Fin des années 1780
画像の著作権:Jean-Baptiste André Gautier-Dagoty ou Jacques-Fabien Gautier Dagoty, Public domain, ウィキペディア・コモンズ経由で
ロケーション情報:チュルリー宮からムードン城までは、約11キロです。(Googleマップによる計算)
馬車の場合、頭数や馬車のスタイルによっても、出る速度は、15キロぐらいでしょうか?
だいたい約40~45分になります。
1871年の火災で、ムードン城の大部分を消失しました、外壁の一部だけが残っているようです。
現在は、ムードン天文台の敷地の中にあります。天文台ができたのは、1875年になります。
ロケーション情報:ムードン天文台への行き方
URL : http://www.obspm.fr
メトロの場合:12号線 Mairie D’issy(メリ・ディッシー)駅下車
169番のPont de Sèvres方面行きバスでPlace RabelaisかEglise de Meudon下車。