Portrait of Marie Antoinette (1755-1793), bust-length, in a trompe l'oeil stone niche

Q001-有名な「マリー-アントワネット」は、誰なのか?

A-001 1932年にツヴァイクが創作した「マリー-アントワネット」です。

2025年現在も「マリー-アントワネット」に関する本のなかで、世界各国でベストセールスを記録しているのは、ツヴァイクの歴史小説です。

ツヴァイクは、当時手に入る資料、書簡集などを参考に、小説を書き上げています。

この本が、一番貢献したのは「マリー-アントワネット=悲劇にあった凡庸な女性」と言う位置付けです。

しかし、「凡庸な女性」とは、どういうことでしょうか?

※凡庸とは、すぐれた点もなく平凡なこと、また、その人やさま、並み、平凡、凡人(アプリ広辞苑より)

ツヴァイクは、マリー-アントワネットを思うあまりに、次の2点を強調しました。

1、マリー-アントワネットを「凡庸な女性」と位置付けること、

2、ルイ十六世がダメな夫であること。

130年以上続く誹謗中傷から王妃を守るために、2点を強調しました。

a.マリーアントワネットが凡庸な女性で、平凡な人物であった、

b.夫である国王ルイ十六世が、優柔不断で、臆病で、意思表示が難しく、

小さな体型であり、太った人物という、いわゆる「ダメ夫」だった

こういうイメージを作り上げることで、マリーアントワネットを庇った、と思います。

しかし、ルイ十六世は、身長194センチです。

王太子時代の肖像画から分かるように、痩せていました。

そして、太ったのは、チュイルリー宮に閉じ込められて、運動不足になってからでした。

このブログのテーマは、「マリー-アントワネットは、本当はどんな女性だったのか?」を再検討するための材料を提案することです。

「マリー-アントワネット」はその生涯で、さまざまな役割立場を担うことになりました。

その立場や生活の場面に応じた態度を取ることで、現代の流行りである簡単な一言で表現するのが難しい女性になりました。

マリーアントワネットのイメージを変える参考文献は次のとおりです。

2002年にフランスで出版されたSIMONE BERTIÈRE著 “Marie-Antoinette l’insoumise(日本語版未刊)。

2005年に出版されたJean-Christian Petitfils著” LOUIS ⅩⅥ ”

(2008年日本語版「ルイ十六世」ジャン=クリスティアン・プティフィス中央公論社刊)です。

この2冊をきっかけに、マリーアントワネットとルイ十六世の再評価が始まりました。

日本では、 中公新書2286安達正勝著「マリー-アントワネット」2014年

惣領冬実著「マリー・アントワネット」モーニングコミックス 2016年

惣領冬実・塚田有那著「マリー・アントワネットの嘘」講談社 2016年

これらが、新しい「マリーアントワネット」像を提示しています。

エマニュエル・ド・ヴァレスキエル著・土井佳代子訳

「マリー・アントワネット最期の日々」上・下 原書房 2018年

この本は、王妃の裁判を通して、王妃の生涯を振り返る内容です。こちらも王妃再評価の一環です。

さらに、子供向け学習マンガでも、マリー-アントワネットの再評価を感じられます。

例えば、世界史探偵コナン11 マリーアントワネットの真実 小学館 2021をあげることができます。

「マリー-アントワネット」への中傷・悪口は、フランスに嫁入りした直後から生まれたものです。

250年以上前のマリー-アントワネットが生きている時代に、

反マリー-アントワネット派が作った「根も葉もない中傷」を繰り返しているのです。

250年以上前の「誹謗・悪口・中傷」が、現代までも生き続けていることは驚きです。

王妃は浪費、贅沢好き、高慢、傲慢などの評価がありました。

とくに、自分のお気に入りに対して、惜しみなくお金を与えました。(このお金の出所は、税金なのですが、、、)

王太子妃時代から、孤独だったので、気に入った人の歓心を買おうとしたようです。

また、プチ・トリアノンの環境整備のために、ルイ十五世の植物園を破壊しましたが、内装には、あまり費用をかけませんでした。

※ルイ十五世の植物園にあった植物は、パリへ移植されました。

例えば、デュ・バリー夫人が使っていたベッドをそのまま使っていたのです。

こうしたことが、王妃のお気に入りにならなかった貴族たちの妬みや反感が、王妃への中傷・批判になるのです。

また、礼儀作法(エチケット)を軽視するようになったことも、宮廷人たちには「侮辱」と感じました。

それは、国王王妃の地位はとても高く、特権を巡って宮廷人や貴族たちは、しのぎを削っていました。

特権があることは、貴族や宮廷人のプライドそのものでした。

一番最初に、マリー-アントワネットの悪口を言ったのは、ルイ十五世の娘たち(マダム・アデライードをはじめとする4姉妹、いわゆる、おばさま方)と伝えられています。

それは、「オーストリア女』でした、やがて、発音が似ているので、「ダチョウ」へと発展進化しました。

マリー-アントワネットは、「女性」であり、「外国人」であり、「オーストリア人」であり、「ロートリンゲン家」であり、「ショワズール派」であり、「王妃」でした。

強いスポットライトが当たる表舞台に登場したヒロイン、と言って良いでしょう。

フランスの人々は、王太子妃の頃は、大歓迎しました。

フランス王妃は一歩下がって国王の陰にあって、お世継ぎ(男児)を産むことを求められてきました。

※フランスは、法律(サリカ法)で女性が国王になることをを認めていませんでした。

このような時代に、マリー-アントワネットは、王妃になりました。

王妃は、子供を産むまでは、ドレスや舞踏会、賭け事に、夢中でした。

ご承知のとおり、結婚当時、夫15歳妻14歳です。

二人に、結婚の完遂を求めるには若過ぎました。

ルイ十六世の教育係は、反オーストリア派で、女性嫌いで、ルイ十六世を操ることを企むような人間でした。

妻マリーアントワネットは、結婚生活について、母から教えられることがなかったようです。

うまくいかない結婚生活に対して、母から書簡で叱咤が飛んできたようですが、ウィーンからの手紙です、

効果はありませんでした。

結婚生活の完成を見るのは、14歳年長の兄皇帝ヨーゼフ二世が二人に、アドバイスを授けることで、解決したことになっています。

Q.アドバイスの中身はなんだったのでしょう?

A.ヨーゼフ二世のアドバイスとは、ルイ十六世の「最後の一押し」だったのです。

1.「手術」を勧めたことになっていますが、フランスにはその記録がありません。

国王については、全て記録を残すことになっているのにです。

「手術」は、現代の視点では個人的なことですが、18世紀当時、国事でした。プライバシーや羞恥心はありませんでした。

だから、「手術」はなかったのです。

2.御殿医による診察でも、「手術」の必要性は認められませんでした。

また、ルイ十六世の機能には、なんの問題もありませんでした。

こちらは、記録に残っています。

ヨーゼフ二世のおかげで、フランス=オーストリア同盟は維持されました。

しかし、生まれたのは、女児でした。

国王夫妻へのお世継ぎのプレッシャーは続くのでした。

シュテファン・ツヴァイクは、伝記小説「マリー・アントワネット」のはしがきで、マリー-アントワネットの評伝を書く人間の覚悟を述べています。

(引用ここから)

王妃マリー・アントワネットの物語を綴るということは、弾劾する者と弁護する者とが、たがいに激論のかぎりをつくしている、いわば百年以上にもわたる訴訟を背負いこむと同じことである。

(引用ここまで)

引用文献:岩波文庫赤437-1「マリー・アントワネット」シュテファン・ツワイク作、高橋禎二・秋山英夫訳1980改訂

ツヴァイクの時代でも、弾劾する者(革命派)と弁護する者(王党派)の激論が続いていたようです。

ツヴァイクは同じはしがきの中で、次のようなマリー-アントワネットの言葉を紹介しています。

(引用ここから)

「不幸のうちに初めて人は、自分が何者であるかを知るものです」

(引用ここまで)

引用文献:岩波文庫赤437-1「マリー・アントワネット」シュテファン・ツワイク作、高橋禎二・秋山英夫訳1980改訂

フランス語で、

(引用ここから)

C’est dans le maiheure qu’on sent davantage ce qu’on est

(引用ここまで)

引用文献Emmanuel de Waresquiel著 “JUGER LA REINE :14,15,16 octobre 1793″ 2016年刊

このような言葉を残した人が、中庸な人間とは思えません。

それを裏付けるために、このブログをはじめました。

このブログを通して、マリー-アントワネットの真実を知る機会になることを期待しています。

肖像画のキャプション:エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で、

この肖像画は、王妃の死後、ヴィジェ=ルブランが王妃の娘マリアテレーズのために描いたものです。

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