「マリ活」はじめました。
「Pour la Reine」のための活動を「マリ活」と名付けることにしました。
「Pour la Reine」とは何か?は、固定ページを追加します。
マリー・アントワネットの評価は、フランス革命当時に、誹謗中傷を目的に作成された文章や風刺画が、現代まで生きながらえている所為だと、考えています。
これは、SNSの風評被害やフェイクニュースによる情報の混乱に似ています。
マリー・アントワネットが生きている時代に始まった風評被害は、王妃自らが発信する方法手段を持たないので、風評が大衆には「真実」になってしまったのでしょう。
王妃の死後、王政復古があり、マリー・アントワネットを「聖女」に祭り上げる動きもありました。
また、フランス革命から時間が経って、革命の熱気が冷めて、大衆が冷静を取り戻した時代になっても、歴史を遡って、革命当時の論争が繰り返されているのでした。
ツヴァイクが書いた有名な「マリー・アントワネット」(1932年)の書き出しで、
(引用ここから)
「マリー・アントワネットの小説を書くことは、200年以上続くマリー・アントワネットの賛否両論を引き受けることになる」
(引用ここまで)
という決意にも似た言葉を残しています。
そして、このツヴァィクの書いたマリー・アントワネットとルイ16世のイメージが、現代に定着することになりました。
しかし、2000年ごろから、シモーヌ・ベルティーユの評論による「マリー・アントワネット」とジャン=クリスティアン・プティフィスの評伝による「ルイ16世」が、そのイメージを覆すきっかけになりました。
私も、シモーヌ・ベルティーユとジャン=クリスティアン・プティフィスの著作を読んで、印象が変化しました。
※「ルイ16世」は日本語版がありますが、「マリーアントワネット」は、フランス語版しかありません。
自分でも「マリー・アントワネット」の真実を知りたくなりました。
いまさらながら、なぜ「マリー・アントワネット?」だと、思います。
ある日偶然に、Eテレで、フランス制作のテレビ番組「マリー・アントワネット最期の日々」をみました。
番組では、王妃の裁判が公正なものでなく、「死刑」判決を前提とした茶番であることを伝えました。
裁判は王妃を断罪するものでしたが、その罪状から「死刑」という判決は、あまりにも重すぎるものです。
テレビ番組が、ある本をベースに作られていることを知りました。
エマニュエル・ド・ヴァレスキエル「マリー・アントワネット最期の日々」上・下 原書房 2018
この本にあったマリー・アントワネットの言葉が心に深く残りました。
それは、「人は逆境にあって、はじめて、自分が何者であるかを知る」です。
たまたま、フランス語を勉強しはじめていたので、フランス語のオリジナルを知りたくなり、フランス語版をAmazon.jpで、取り寄せました。
「マリー・アントワネット フランス革命と対決した王妃」中公新書 著:安達正勝でも、新しいマリーアントワネット像を教えてくれました。
勉強嫌いで、ファッションに目がなく、プチトリアノンに引きこもり気味の王妃が、
ただ、軽薄なまま死刑判決を受けたのではありません。
王妃は、自分が何者であるかに気がついて、革命に立ち向かいました。
「王妃が王妃である」ことに目覚めるのは、みずからが「孤独と絶望」に追い込まれたことにあると思ってます。
王妃の考えを知るには、ヴェルサイユ襲撃の頃から、チュイルリィー、タンプル塔、コンシェルジュリのころの王妃を追うことにします。
そのためにの材料として、マリー・アントワネットの書簡が王妃の気持ちを一番あらわしていると考えます。
書簡集は、母マリアテレジア、フェルセンとのものが有名ですが、それ以外にも書簡がありますから、探してます。
そして、18世紀当時「回想録」を発表することがはやりました。
ですから、王妃の近くにいた人々が回想録を残しています。
引き続き、[Gallica(フランス国立図書館デジタル版)]、アマゾン(日、仏、米)で探してます。
理想としては、「シン・マリー・アントワネット」の教科書を書くことですが、
その前に、王妃の書簡や回想録を通して、王妃の心の動きをたどります。
そのために、書簡や書籍を解釈するために、フランス語、英語、ひょっとするとドイツ語、スペイン語も身につける必要があるかもしれません。
こういう全てを「マリ活」と呼んで、自分の支えにしようと思います。
世界に発信するようなことではありませんが、自分にとって大事な覚書として、あらためて、ここに残しておきます。
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